祈ってばかりの日々。ただ祈る日々。祈ることしかできぬ日々。僕は何に祈っているのだろう。妻にだろうか。超越存在にだろうか。それとももっと抽象的な,確率や,確立過程や,乱数にだろうか。あるいはもっともっと抽象的な,不確かさ,みたいなものに祈っているのだろうか。よく分からない。

よく分からないなりに,でも,たぶん,僕の祈りの宛先は決まっている。そんな気がする。宛先といっても,それはまだ存在しないし,それはまだ名前も持たない。まだすごく淡くて,薄くて,ふんわりしたものだ。ただ,まるで未来そのものみたいなそれにしか,僕の祈りは届かない。それにしか意味のない祈りを,僕はずっと繰り返している。今だってそうだ。これからも僕は祈るだろう。この祈りは,その存在がもっと色濃くなって,名前がついて,それにまつわるあらゆるものごとがはっきりと,具体的になってからも,きっとずっと続くだろう。より強く,鋭さを増して続いていくだろう。

そしてやはり,直接的な意味がなくても,間接的な投影に過ぎなくても,やはり僕は妻に祈る。妻に祈り妻と祈る。徳高く美しい彼女の日々が報われることを祈る。彼女の孤独が癒やされることを祈る。彼女の嘆きが,悔しさが,戦いが,ことなく静かに終わることを祈る。そしてなによりも,妻の未来が明らかであることを,穏やかで暖かくあることを,僕は祈る。

福島にいくのは初めてだった。福島といっても実際に用事があったのはどちらかというと郡山の方で,新幹線の駅から車でさらに40分ほど山あいを縫っていった先にある,一風変わった工場への訪問だった。朝から新幹線に乗り遅れたり,新幹線を乗り過ごしたり,さんざんな出だし。結局なんだかずっとパッとしない1日で,やけに疲れた。そういうぼんやりとした1日の中で,車窓から見た,里山にばら撒かれて張り切った様子のソーラーパネルと,その隣で沈黙する廃校になった小学校とのコントラストだけが,初夏の光を含んでやけに鮮やかだった。

郡山で降りるはずが福島駅まで乗り過ごした。この時すでに遅刻しており,さらに悪いことにはあらゆるデバイスの充電がギリギリだった。特に携帯の電池切れは避けたい。見知らぬ土地にいる上に,すでに人を何人も待たせている。エスカレーターを駆け降りてすがる思いで買った乾電池式の充電器はすぐに使えなくなり,あわてて買い直したリチウムイオン式のものは買った時点では未充電で使えなかった。何もかもうまくいかない。駅構内に充電ができそうな場所が見当たらなかった。何もかもうまくいかない。しかたなく郡山へ向かう新幹線で15分だけ充電した。焼け石に水だと思っていたが,存外に効果があったようで,携帯だけはなんとか仕事が終わるまで使える状態だった。

帰宅して妻の顔を見たらどっと疲れが押し寄せてきた。きっと移動の疲れだけじゃない。準備運動で終わってしまった1日と,そのように過ぎてしまった時間と,そのように過ごしてしまった自分と,そういうもの全部にすごく疲れていた。水を飲んで,妻にお土産を渡して,それからは,ただ,寝た。

これは日記ではない。日記であるはずだったのに,日記ではなくなってしまった。日記とはその日あったことを書き記すものだ。少なくとも僕はそう信じている。では,昨日あったことを書き記した文章はなんと呼ぶのだろう。一昨日あったことを書き記したものは?そしてはたして,そんなものに,そんな記録に意味なんてあるのだろうか。そう考えながら僕はいまスケジュールを振り返って,3日前の記憶を掘り起こそうとしている。

この日は……この日は,たしか急ぎの仕事を自宅で終わらせてからすぐに新小岩に向かった。対面で対応するべき仕事がそれなりに積まれていたので,この機会に一気に片付けてしまうつもりだった。結果的に,片付たかどうか,かなり微妙なところだ。人間の心の動きというのは,煮えたぎるマグマみたいだ。熱くて,ドロドロしていて,いかにも有害で,実際見た通り以上に有害なのは間違いないのだけど,どこかちょっかいをかけたくなる。そしてちょっかいをかけるたびにちゃんと火傷をして,もうなどと立ち入るまいと決意を固める。そんなことを僕は繰り返している。固めた決意は必ず忘れるからだ。覚えているのはどうでもいいことばかり。

翌日は郡山までの出張があったものだから,本当は早く寝なくちゃいけなかった。そんな夜に限って読書が捗ってしまって,寝付けない。第二次大戦以降のヨーロッパ史を振り返るためにてきとうに見繕った1冊が大当たりだった。文体も内容も申し分ない。ヨーロッパという共同体のままならなさ,気高さ,怒りや怯え,アメリカとの対峙姿勢など,今の僕の好奇心にとって非常にちょうどいい情報粒度と情報量だ。まだ読み途中だから確定した評価ではないけれど,『豊かさの誕生』以来のヒットになりそうだ。

こうして書いていてつくづく思う。日記は鮮度がよくないといけない。記憶や印象はなまものだ。今の僕にしてみたらこの日はもうすでに数多の過去の1日にすぎない。でも,この日を生きたこの日の僕にとっては,きっともう少し特別な日だったはずなんだ。仕事をして本を読んだだけの1日ではない,摘みたてのミントみたいに生々しくて鮮烈な1日だったはずなんだ。でももうミントは乾いてしまった。今更お湯で煮出してみても,青々と鼻に抜ける本来の冷感は得られない。

打ち合わせの連絡で慌ただしく目覚める。眠い目に朝の光が白々と眩しい。やけに寒い。冷房を切らずに寝てしまったらしい。遠くに子供の声が聞こえる。ここからは,何を言っているかは分からない。でも,何か言っている。大事なのは夏の朝に少年が誰かに何かを叫んでいるということで,その内容はどうでもいい。

昼まではみっちりと打ち合わせが入っていた。だんだんお腹が空いてきて,内容が頭に入って来なくなる。妻と相談して,モスバーガーを食べることにした。僕はエビグラスソースの海老カツバーガーを頼んだ。まずエビグラスとはなんだ。造語だろう。エビとデミグラスをぐしゃっと混ぜた造語なのだろう。悪くない。嫌いじゃない。いやむしろたまらなく好きな向きの命名だ。限定商品の名前にありがちな勢い先行の命名は最高だ。僕は存在すればなるべく期間限定なり数量限定なりの限定商品を注文する。理由はない。こだわりもない。ただなんとなく,限定,と言われると,ははあそうかい限定かいそうしたらあたしゃそれをひとつ頂こうかね,となんの衒いもなく食指が伸びる。一方妻は店ごとに注文するメニューがほぼ決まっていてブレがない。今日も恥ずかしくなるくらい素朴なホットドッグを頼んでいた。ちなみにモスバーガーのレギュラーメニューにホットドッグがあることを僕は今日初めて知った。

切り上げるタイミングの難しい仕事が後にいくつか控えているのを無視して,思い切りよく退勤する。このところ仕事の種類がスケールアウトしていて手元で収拾が付きにくくなっている。ともあれ,たかだか有限のタスクの総和,ひとつひとつ片付けていけばいつか必ず終わる。仕事の好きなところだ。いつか終わる。必ず終わる。

詩や観念や世界や実存,推論,それにたくさんの弱さや悲哀しさ。そういう永遠なるものばかりを向こうに回して生きてきた僕にとって,仕事は本質的に救済めいている。だから僕は仕事に楽しさとか,やり甲斐とかを求めない。そういう,観念的な燃料からエネルギーを取り出すような比喩は,僕にとっての仕事を表現しない。むしろ,祈りに近い。つまり,差し出された手を握ること。ただそれだけ。やはり,祈りそのものかもしれない。

夕食はパッタイだった。海老がないから豚肉で作ってもらった。なんだこの料理は。多分初めて食べたけど美味い。とても美味い。妻によればここにパクチーを入れる作法もあるらしい。またパクチーだ。ちょっと東南アジアの料理となると右も左もパクチーパクチー。僕にしてみればあれはおよそ食べ物の味がしない。プラスチックカメムシの香りしかしない。しかし妻に言わせると,ひとくちでぶわぁと爽やかなハーブの香りが口いっぱいに広がるらしい。紫蘇やミントといった個性的なハーブから受ける印象に近いらしい。とするとなかなか美味しそうだ。どうやらパクチーの香味成分は感覚出来る人/出来ない人というのが生来的に決まっているらしい。感覚できない側の人間としては,パクチーを食べられない自分の遺伝子を呪わしく思うしかない。いつかパクチーの香りを,パクチーを使わずに再現してみたい。そうしたら誰でもパクチーの風味を楽しめる。いい話じゃないか。この世にはパクチーが食べられない人間しか経験し得ない疎外感というのが,紛れもなく存在するのだ。などと如何様にも仰々しく言い募ることも出来る。しかし本音としては,なんとなく妻と別の世界を生きているようで,寂しい,というだけなのだ。妻と同じものを食べて,妻と同じ体験が共有できないことが,なんだか寂しいという。それだけなのだ。

久しぶりにル・クレジオについての話をした。久しぶりに山尾悠子の話をした。久しぶりに言葉の話をしたし,久しぶりに神話や宗教の話をした。妻とはいつもの話題だけど,妻以外の人間とこういう話をする機会はめっきり減って,じつに数年ぶりのことだった。不思議な感じがした。

月曜日らしい月曜日で,良くも悪くもバタバタしていた。すっかり油断していたところに急なリカバーが発生し,そのゴタゴタの中で予定していた打ち合わせが立て続けにキャンセルになった。掛け違えたボタンをひとつひとつ直していくような,そんな月曜日だった。

昼は妻と行きつけているラーメン屋で食事をした。この店のまぜそばはどれも風味絶佳を地でいく傑作揃いで食後の満足感も素晴らしい。素晴らしいのだが,いかんせん量が多い。それも昨今流行りの大盛りではなく,ちょうどお腹がはち切れる直前程度の,気持ちよく勢いで食べられる程度の量だ。これの何が問題かというと,食後に狂おしいほど眠くなる。今日も何度か気絶しかけた。

夜は妻の友人を家に招いた。かねて聞いていた断片的な話の総和からかなり特殊な人格を想像していたが,実際に会って話したらやはり特殊な人格で安心した。才気煥発,諦念と分裂,思惟で自我が煮詰まっているように見えた。魂の水分を振り絞って枯れ急いでいるようにも見えた。ある意味ではとても妻の友人らしいと思ったけれど,まったく相容れない部分も少なからずあろう,と思った。

紛うことなき夏の1日。たぶん東京で暮らす人はみんな今日,今年の夏の幕開けを感じたのではないだろうか。もう冷房なしでは寝苦しい。寝汗で起きる。日焼け止めを塗る。日傘もさす。ちょっと歩くと汗が止まらない。そういう時期だ。

妻がもんじゃ焼きを食べたいというので,食べに行くことにした。もんじゃといえば月島・浅草というのが定石だろう。ということで,その周辺のお店に片っ端から電話で予約を試みるのだが,これが笑えるくらいに軒並み満席。夫婦揃って10件くらいは電話を入れたんじゃなかろうか。7件目あたりからは僕も妻も半分捨て鉢で,通話しながら次の店を探し始める始末だった。

このまま延々と月島くんだりにこだわっていたら埒があかないということで,ものの試しに丸の内のビル内にあるもんじゃ屋に電話してみると,これがあっさり予約が取れて拍子抜けしてしまった。土曜に丸の内までもんじゃ焼きを食べに行くのを物好きとまでは言わないが,月島もんじゃの観光需要とのバランスを考えれば少数派なのは間違いなかろう。ところが実際に店舗まで行ってみるとまだ夕飯には早い時刻だというのに,すでに4,5組,しっかり行列が出来ている。驚いた。どうやら僕の想像の何倍も,もんじゃ焼きは流行っているらしい。

カウンター席に案内されて,明太子もんじゃと豚キムチもんじゃを注文した。目の前の鉄板でスタッフが1から焼いて提供するスタイルのようだ。その奥が厨房になっていて,せわしない働きっぷりが僕たちの席からは常によく見える。これがいけなかった。テキパキとせわしない分には見ていて気持ちがいいものだが,全体的にダラダラとしているのにどこかせわしない。要するに落ち着きがない。オペレーションが良くないし,店舗構造もちぐはくで,私語が多く,監督者不在のままパートタイマーだけで回しているように見受けられた。数十分程度の滞在にも関わらず,衛生的に際どい場面もそれなりにあった。

せっかく丸の内に来たので丸善に寄った。都内でも大型書店が減ってしまって寂しい。かくいう僕もほとんど電子書籍しか買わないし,買うにしてもAmazon経由がほとんどだ。しかし久しぶりに来て,改めて大型の新刊書店というのは独特の存在意義を残していると思う。あれだけの物質的な情報に囲まれてその中をうろうろしていると,良くも悪くも時間が溶ける。つまり楽しいということだ。自分の興味がいまどこにあるかを知るきっかけにもなる。少し前であればプログラミングの棚の前に何時間でも居ただろうが,今日は色々な雑誌を立ち読みしていたらあっという間に1時間経っていた。そこで見つけた「東京人」という雑誌が小粋でじつによかった。定期購読してもいいかもしれない。そういえば数学セミナーとNewtonは,いつも定期購読しようと思って忘れている。こうやって定期的に,忘れていたことを思い出す。もう何年も繰り返している。

丸の内から四谷までは電車に乗った。四谷から自宅までは2人で寄り道を繰り返しながら散歩をした。1時間くらい歩いて,国立競技場のある明治公園を横切り,ダイエット中の逡巡を無視してラーメン屋に入った。僕はチャーシュー麺。妻はラーメン。黄色い看板が目標のラーメン屋だが,偉いのはこの立地にして24時間営業である。夜中にどうしてもラーメンが食べたくて狂おしくなった我々が,この店に何度救われたことか知れない。今日も美味しかった。ごちそうさま。

じっとりと湿った1日だった。水を含んだ空気が重たくて,座っているだけで肩が凝る感じがした。

ドストエフスキーの『罪と罰』を,もう何年振りか,再読した。朗読を聴くことを読書に数えるかは異論があろうが,とにかく文字情報を順番に解釈していくという点では立派に読書だろう。そして感想はというと,率直に,色褪せて感じた。この小説の主題に対してすでに自分が当事者でない……というか,当事者としての立場を想像できなくなったのが,その大きな要因だと思う。こういう哲学小説というか,思想小説というか,人間の実存を問うような物語は,今の僕には肩肘が張り過ぎて目も脳も疲れてしまう。

「事実は小説よりも奇なり」とはよく云うが,警句のような顔をしてなんて自明な物言いだろう。人間の想像力に対する過信と慢心,そして事実と云う用語に対する油断を感じる。小説の形式に収まるような美しい因果の,その程度の矮小な表現力で,事実の複雑性に太刀打ちできるなどと思い上がりも甚だしいではないか。そしてだからこそ,事実に接近した小説の価値が燦然とするのだ。

事務所に残っていた5人で話し込んだ。話し込んだといっても,実態としては僕の愚痴に部下を付き合わせた形で,職権の濫用と言われればそれまでだが,そんな野暮な人間はそもそもうちでは雇っていない。一通り話してスッキリしたので,そのまま家に帰った。妻の顔を見たらまたフツフツと愚痴が湧いてきたので,結局それからまたしばらく,妻にも話を聞いてもらった。