打ち合わせの連絡で慌ただしく目覚める。眠い目に朝の光が白々と眩しい。やけに寒い。冷房を切らずに寝てしまったらしい。遠くに子供の声が聞こえる。ここからは,何を言っているかは分からない。でも,何か言っている。大事なのは夏の朝に少年が誰かに何かを叫んでいるということで,その内容はどうでもいい。

昼まではみっちりと打ち合わせが入っていた。だんだんお腹が空いてきて,内容が頭に入って来なくなる。妻と相談して,モスバーガーを食べることにした。僕はエビグラスソースの海老カツバーガーを頼んだ。まずエビグラスとはなんだ。造語だろう。エビとデミグラスをぐしゃっと混ぜた造語なのだろう。悪くない。嫌いじゃない。いやむしろたまらなく好きな向きの命名だ。限定商品の名前にありがちな勢い先行の命名は最高だ。僕は存在すればなるべく期間限定なり数量限定なりの限定商品を注文する。理由はない。こだわりもない。ただなんとなく,限定,と言われると,ははあそうかい限定かいそうしたらあたしゃそれをひとつ頂こうかね,となんの衒いもなく食指が伸びる。一方妻は店ごとに注文するメニューがほぼ決まっていてブレがない。今日も恥ずかしくなるくらい素朴なホットドッグを頼んでいた。ちなみにモスバーガーのレギュラーメニューにホットドッグがあることを僕は今日初めて知った。

切り上げるタイミングの難しい仕事が後にいくつか控えているのを無視して,思い切りよく退勤する。このところ仕事の種類がスケールアウトしていて手元で収拾が付きにくくなっている。ともあれ,たかだか有限のタスクの総和,ひとつひとつ片付けていけばいつか必ず終わる。仕事の好きなところだ。いつか終わる。必ず終わる。

詩や観念や世界や実存,推論,それにたくさんの弱さや悲哀しさ。そういう永遠なるものばかりを向こうに回して生きてきた僕にとって,仕事は本質的に救済めいている。だから僕は仕事に楽しさとか,やり甲斐とかを求めない。そういう,観念的な燃料からエネルギーを取り出すような比喩は,僕にとっての仕事を表現しない。むしろ,祈りに近い。つまり,差し出された手を握ること。ただそれだけ。やはり,祈りそのものかもしれない。

夕食はパッタイだった。海老がないから豚肉で作ってもらった。なんだこの料理は。多分初めて食べたけど美味い。とても美味い。妻によればここにパクチーを入れる作法もあるらしい。またパクチーだ。ちょっと東南アジアの料理となると右も左もパクチーパクチー。僕にしてみればあれはおよそ食べ物の味がしない。プラスチックカメムシの香りしかしない。しかし妻に言わせると,ひとくちでぶわぁと爽やかなハーブの香りが口いっぱいに広がるらしい。紫蘇やミントといった個性的なハーブから受ける印象に近いらしい。とするとなかなか美味しそうだ。どうやらパクチーの香味成分は感覚出来る人/出来ない人というのが生来的に決まっているらしい。感覚できない側の人間としては,パクチーを食べられない自分の遺伝子を呪わしく思うしかない。いつかパクチーの香りを,パクチーを使わずに再現してみたい。そうしたら誰でもパクチーの風味を楽しめる。いい話じゃないか。この世にはパクチーが食べられない人間しか経験し得ない疎外感というのが,紛れもなく存在するのだ。などと如何様にも仰々しく言い募ることも出来る。しかし本音としては,なんとなく妻と別の世界を生きているようで,寂しい,というだけなのだ。妻と同じものを食べて,妻と同じ体験が共有できないことが,なんだか寂しいという。それだけなのだ。