真夏のスーツはまとわりつく。官公庁への訪問だった。まわりが軒並みクールビズであくせくしている中で,僕はネクタイを絞めて背広を着ていた。悪目立ちしているかもしれないと思ったけれど,クールビズと背広の違いなど霞ヶ関においては日暮里と西日暮里ほどの差もなく,当然誰かに言及されることもなく,暑さによる不快感を犠牲にして自分の美意識に殉じただけだった。クールビズなんて着るくらいなら,裸の方がマシだ。

訪問が終わってからはすぐに帰宅した。特に寄り道もせず,あっさりとした帰路だった。自宅に戻ってすぐにシャワーを浴びたり,水を飲んだり,一眠りしたり,やりたいことは一通り考えておいたのだけど,部屋に戻るなり客先からの催促が飛んできて結局背広を脱ぎ散らかしただけでそのまま作業に入った。仕事をしている最中はとにかく次から次へとやるべきことがやってきて,身体的な違和感や不快感に気を回している余裕がない。そうやって積み重なった違和感や不快感は,ほっと一息ついた時,急に襲ってくる。今日は夕食前,妻に頼まれてもやしを買いに行こうとしたとき,猛烈な不愉快に襲われた。着ていたものが汗でべちゃべちゃだ。髪も濡れている。もちろん汗で,だ。体が熱い。眠い。疲れがどっと出た。呼び鈴がなる。来客だ。そういえば夕食の約束をしていたのを思い出す。うむ。このコンディションでホストを張るのはなかなか勇気がいる。

今日のメニューはいつになくコンセプチュアルだった。コンセプトはずばり,東南アジア。今日は個人的に梅雨入り以来最高に体感湿度の高い一日だった。湿気で空気が重たくて,ねばねばしていて,肺に馴染む感じがしない。亜熱帯の空気だ,と思った。こういう日は,亜熱帯の料理を食べて内臓を納得させるのが一番いい。妻にはあらかじめ"今夜は東南アジア風で頼む"とリクエストを出しておいた。

リクエストに対する妻の用意は実に周到で,夕食の食卓にはすでに東南アジア風としか形容しようのない独特の香りが漂っている。海老と水菜の生春巻き。これはスイートチリソースをたっぷりつけて食べる。美味い。海老がぶりっぶりだ。それとこのスイートチリソースが美味い。生春巻き以外に何に使うのかいまのところ検討がつかないが,とにかく生春巻きにはすこぶるよく合う。春雨サラダ。春雨のサラダだ。この透明な麺を春雨と最初に呼ぶことにした人間の透徹したリリシズムに毎度僕は心打たれる。幾何学的にまっすぐ空間を伝う春の雨の残像は,たしかに茹でた春雨の有様にとても似ている。ごま油の香ばしさと,三つ葉やバジルの豊かな匂いも詩情に拍車をかける。とまで言うとさすがに気のせいかも知れない。ガパオライス。妻の作るガパオライスは僕の偏愛の対象の一つだ。何がいいってミントがいい。本場本流では例によってパクチーを添えるらしいが,正直に申し上げてこのガパオライスには圧倒的にミントがよく合う。パクチーで食べたことはないし今後も食べることはないが,絶対にミントの方が美味い。負ける気がしない。かかってこい。