しばらく日記を書かなかったのは単に忙しかったからだ。忙しいと書けなくなる日記というのはあまり具合が良くない。日記に期待されるのは体験を定期的に,それこそ24時間を目処にまとめ続けることで,本質的にシステマチックな運用だ。時間がないから書けない,というのは運用がまずい証だろう。

そう思い立っていかに日記に割くコストを減らせるかを考えた。僕はどうも文体に対するこだわりが抜けなくて,どんな文章を書くときも粋な表現を目指してしまう。日記でもそれをやってしまうのは運用に対して過度だと自覚はしているが、これはもう癖なのでどうしようもない。そこで、AIを壁打ち相手に使って、トピックの抽出から本文の生成までやらせてみることにした。

出来栄えは悪くない。悪くないがやはり文体が良くない。もちろんそこは下手ではない。むしろ上手い。上手いには上手いが僕よりは上手くない。いや上手くないことは問題ではない。問題は明らかに僕の文ではないことだ。そしてそれが問題になるのはやはり僕が僕の文体に対して抱くこの執心がアイデンティティと呼ぶべき強さを持っているからだろう。これだけアイデンティティを小さくまとめることに躍起になって生きてきても文体なる抽象へのこだわりから離れられないのはなかなか惨めだ。

とはいえ、ではAIとの対話的日記生成が試みとして失敗だったかというと決してそうではない。成功していると思っている。ただ、その内容をここに載せることに対しては違和感がある。ここに置く文章は誰ともしれない誰かが見るかもしれない。だから気取らずにいられない。気取らない方が難しい。だとしたら気取る方が難しい場所を用意すればいい。機械的な運用に耐えうる、自我の小さなブログをもう一つ開設しようと思う。

バーベキューがなかなか不愉快だったので,今日も文化的な入浴が必要になってしまった。このところ誘われて行く食事が軒並み外れてばかりで人間不信に拍車が掛かる。もう自分の味覚以外なにも信じられない。こうして僕は徐々に意固地な保守派になっていくのだろうか。のぞむところだ。

文化的入浴の前にまず,昨日終わらなかった仕事をなんとか収めるために休日出勤をしなくてはならなかった。それでも何とか休日の形を保つために、妻と一緒に新小岩の工場に向かった。遠くに入道雲が見える。職場へと向かう道すがら、体にまとわりつく水蒸気の気配を感じる。風が吹いている。この湿気をこの風があんなに遠くまで運んでいくのだなぁと不思議な気分になる。工場の前には見慣れた車が数台止まっていてどうやら休日出勤をすることになったのは僕だけではないらしい。すぐにシャッターの奥から人影が現れる。簡単に妻を紹介してそのまますぐに事務所へと上がった。

思っていたよりも休日出勤の人数が多くて、思わず背筋がぞっとする。これだけの人数が休日に出勤しているという事はそのためにこれだけの人数分休日手当が支払われているわけで,経営者の立場からすればなんともぞっとしない話ではある。はずなのだが,当の社長も出勤しておりなんとなくダラダラとした様子で働くスタッフを温かく見守っていた。この会社と取引をしていると時々こういう風に自分自身のコスト感覚との違いに愕然とすることがある。いい意味でも悪い意味でも、およそ9割9分以上は悪い意味なのだが,この会社は趣味の延長的に運営されているきらいが強い。せっかくの夏なのだしもっとしゃきっとした組織になってもらわないと困る。

許された時間の中で最大限組織をしゃきっとさせてから,僕と妻は兼ねて目的だった蕎麦屋に向かった。NHKのドキュメンタリーでこの蕎麦屋の店主を見て以来いつか行こうねと約束していた。こんな形で念願叶うとは思っていなかったが,叶ってしまえば同じである。両国駅から江戸東京博物館のほうにしばし歩いて,大通りと薄暗い路地のちょうど境目あたりに,行灯を点したようにポッと浮かび上がる美しい軒先がある。店構えもキリッと引き締まって独特の緊張感と格式を感じさせる。店内についても同様で何から何まで店主の美意識が行き渡っており,よく整理され,整頓され,見るからに清潔に保たれている。多くが小料理屋の様相を呈する昨今の都内の蕎麦屋の風潮の中で,この店は明らかに蕎麦屋であることをアイデンティティとしている。その潔さが心地良い。僕は穴子と夏野菜の天ぷらそばを頼んで,妻は冷やした牡蠣のそばを頼んだ。どちらも実に品がよく上質な味わいだった。特に驚いたとは蕎麦自体の品質の高さだ。芳醇なカツオの薫るつゆの風味とほどよく調和する香ばしい蕎麦の匂い。そしてツルツルの喉越し。これで十割そばだというのだから恐れ入る。

蕎麦を食べ終えてもまだすこし余裕のあった胃袋にトンカツを詰め込んで,パンパンになったお腹をなだめながら帰路についた。

思い出しながら日記を書く。確かこの日は金曜日で,僕は誘われたバーベキューに行った日だ。バーベキューは夜で,昼はフランス料理だった。

その前の日,銀座の焼き鳥屋に誘われたから妻を連れ立って行ってきた。雑居ビルの何階だかにあるうらびれた感じの焼き鳥屋で,入店早々警戒心が高まる。真っ黒な壁と,油の気配が濃厚な店内の香り,いまひとつ行き届いた感じのしない清掃状態,不必要にこちらの出方を伺う店員の態度。すべてが少しずつ癇に障って正直あまりいい気分はしなかった。僕が外食に求めているのはかなり純度の高いエンターテイメントとしての料理とそのプレゼンテーションであって,持ち寄った孤独の擦り合わせや埋め合わせではない。銀座くんだりまで出向いておいて孤独を云々するのが野暮だと言われればそれまでだが,輪をかけて野暮な時間をなかば強要されたのだから,この程度の愚痴は許されてほしい。

あまりにも身体が野暮で燻されてしまったものだから,文化的な入浴が必要だった。僕もそうだし,果たして妻もそうだった。自分たちが外食に求めるものを再確認しないではいられないほど,焼き鳥屋で浴びた野暮の量に狼狽していたらしい。これを機に,ずっと連れ立って行きたかった平井のフランス料理に伺うことにした。平井というのは不思議な街で,よくあばれる2つの川に挟まれた中洲にある。下町の風情が強く,ひるがえって,ここまで山の手の気風を感じさせない空間も都内ではなかなか珍しい。そんな街の路地をくねくねとしばし進んでいくと,突然パッと明かりがついたように格調を感じさせるフランス料理屋が目に入る。異様であり,威容でもある。局所的に山の手が生えてきたような歪な空間だ。扉を開けるとぶわっと教科書のようなフランス料理の匂いが立ち込める。サービス,味,空間設計,どれも超一流と言ってよかろうと思う。アミューズからデセールにいたるまで一貫した美意識を感じさせる。特に,鶏肉のバスク風煮込みは目が覚めるようなエキゾチシズムが噛むたびに溢れ出す逸品で,いまだに味の輪郭が判明に思い出せるほどだった。

妻もいたく気に入ったようなので,出勤ついでに近々また行くことになると思う。

真夏のスーツはまとわりつく。官公庁への訪問だった。まわりが軒並みクールビズであくせくしている中で,僕はネクタイを絞めて背広を着ていた。悪目立ちしているかもしれないと思ったけれど,クールビズと背広の違いなど霞ヶ関においては日暮里と西日暮里ほどの差もなく,当然誰かに言及されることもなく,暑さによる不快感を犠牲にして自分の美意識に殉じただけだった。クールビズなんて着るくらいなら,裸の方がマシだ。

訪問が終わってからはすぐに帰宅した。特に寄り道もせず,あっさりとした帰路だった。自宅に戻ってすぐにシャワーを浴びたり,水を飲んだり,一眠りしたり,やりたいことは一通り考えておいたのだけど,部屋に戻るなり客先からの催促が飛んできて結局背広を脱ぎ散らかしただけでそのまま作業に入った。仕事をしている最中はとにかく次から次へとやるべきことがやってきて,身体的な違和感や不快感に気を回している余裕がない。そうやって積み重なった違和感や不快感は,ほっと一息ついた時,急に襲ってくる。今日は夕食前,妻に頼まれてもやしを買いに行こうとしたとき,猛烈な不愉快に襲われた。着ていたものが汗でべちゃべちゃだ。髪も濡れている。もちろん汗で,だ。体が熱い。眠い。疲れがどっと出た。呼び鈴がなる。来客だ。そういえば夕食の約束をしていたのを思い出す。うむ。このコンディションでホストを張るのはなかなか勇気がいる。

今日のメニューはいつになくコンセプチュアルだった。コンセプトはずばり,東南アジア。今日は個人的に梅雨入り以来最高に体感湿度の高い一日だった。湿気で空気が重たくて,ねばねばしていて,肺に馴染む感じがしない。亜熱帯の空気だ,と思った。こういう日は,亜熱帯の料理を食べて内臓を納得させるのが一番いい。妻にはあらかじめ"今夜は東南アジア風で頼む"とリクエストを出しておいた。

リクエストに対する妻の用意は実に周到で,夕食の食卓にはすでに東南アジア風としか形容しようのない独特の香りが漂っている。海老と水菜の生春巻き。これはスイートチリソースをたっぷりつけて食べる。美味い。海老がぶりっぶりだ。それとこのスイートチリソースが美味い。生春巻き以外に何に使うのかいまのところ検討がつかないが,とにかく生春巻きにはすこぶるよく合う。春雨サラダ。春雨のサラダだ。この透明な麺を春雨と最初に呼ぶことにした人間の透徹したリリシズムに毎度僕は心打たれる。幾何学的にまっすぐ空間を伝う春の雨の残像は,たしかに茹でた春雨の有様にとても似ている。ごま油の香ばしさと,三つ葉やバジルの豊かな匂いも詩情に拍車をかける。とまで言うとさすがに気のせいかも知れない。ガパオライス。妻の作るガパオライスは僕の偏愛の対象の一つだ。何がいいってミントがいい。本場本流では例によってパクチーを添えるらしいが,正直に申し上げてこのガパオライスには圧倒的にミントがよく合う。パクチーで食べたことはないし今後も食べることはないが,絶対にミントの方が美味い。負ける気がしない。かかってこい。

 

日記がうまく書けない。今日は比較的たくさんのことが起こった日だったと思う。出来事がうまく文章にならない。そこで今回は特になんの趣向もないまま,起こったことを起こったままに書き連ねてみようと思う。本来の日記のあり方もきっとそんなものなのだろう。

起きてすぐ,ものすごくお腹が空いていた。そこで妻が作ってくれたラーメンがすごく美味しかった。気を利かせてトッピングしてくれたチャーシューとメンマの味付けが甘くて驚いた。海苔がいっぱい入っていて嬉しかった。どういうわけか,どんなラーメンでも僕は海苔をたくさん入れたくなってしまう。

ラーメンを食べてすぐに出勤だった。いつも特に理由なく出勤したり在宅で働いたりしているけれど,今日は出勤する理由がちゃんとあった。人事面談だ。他人様の評価を下すというのが昔は苦手だった。遠慮もあった。それがまるで嘘のように今となってはなんの躊躇もない。僕からの評価でなくては誰も納得しないだろう。それに,僕が評価するのは成果という人為であって人格ではない。個人の人為と人格を認知上も綺麗に分離するのは難儀ではあるけれど,難儀だからといって不可能ではないし,そのコストに背を向けては何も進まない。僕は何が何でも何かを進める立場の人間なので,何も進まないでは済まされない。自分もそれでは済まさない。今度の面談も結果的には,然るべきところに落ち着いたと思う。

それから,ちょうど面談をしたばかり,評価したてホヤホヤの部下をひとり自宅に招いた。食事は妻が用意してくれた。そしてそんな妻の料理に対する部下の反応があまりにも完璧だった。彼は褒め続ける。美味い美味いと言い続ける。とにかく褒め続けてやめない。しかもきちんと美味そうに食べる。なんて気持ちがいいんだ。僕は妻を褒められるのが何よりも嬉しい。誰に自分を褒められても正直最近は何一つ嬉しくないが,妻のことを褒められると飛び上がるほど嬉しい。そんな僕なので今日はずっと飛び上がっていた。じつに気持ちのよい夜だった。本来サウナには興味はなかったが,あれだけ妻を褒めてくれた部下のオススメとあっては一度行ってみるしかあるまい。妻を褒められる喜びの前ではサウナに関する数年越しの自家撞着など一顧だに値しない。

涙を流すこと自体はよくある。あくびをしたり,花粉症だったり,痛みだったり,涙というのは泣くという生理現象の帰結であって,生理学的にはそれ以上の意味はない。しかし人間はそこに,涙というものに実に多くの意味を見出したり,載せたりする。涙とは生理学的に濾過された血液である以前にまず,深刻な文学的対象だからだ。人間は常に理解可能なドラマツルギーの中を生きており,そういうドラマツルギーの中で切実なのは常に生理学よりも文学だった。物語だった。死も,流血も,たとえば,人間を有機化合物の系として対象化するなら,それは単なる停止や,不全に過ぎない。ただし,単なる停止や不全ではないから弔いや治療がある。僕は今日涙を流した。文学的な涙だったと思う。

もうすっかり夏でしかなく,夏らしくない風景を探す方が難しい。熱でゆらめく鈍色の線路も,遠くでみるみる膨らんでゆく積乱雲も,道ゆく人々の肌の露出も,空気に吸ってもらえずに浮き出す汗も,蚊取り線香の匂いも,伸び放題の雑草も,四半期決算も,冷房の重たい風も,全部が夏だ。今日の仕事は,人の話を聞きながらうまく相槌を打つことだった。こう書くとそっけないけれど,本当に難しくて,本当に大切な仕事だ。僕のような立場の人間が組織に対して出来る貢献は,畢竟,対話と激励くらいしかない。だから真剣に対話と激励をする。なるべく丁寧に,熱意を持って。

妻のハンバーグを食べたのは久しぶだった。妻自身も久しぶりに作ったと言っていた。僕はこのハンバーグが狂おしく好きだ。朝昼晩,いつ食べても美味い。いつ食べても美味いが,特に美味い一瞬がある。真夜中だ。さんまは目黒に限ると云うが,妻のハンバーグを食べるなら真夜中が一番美味い。旬だ。そもそも世間様一般では,真夜中の食事は背徳の象徴とされている。健康志向をこじらせたろくでもない価値観だと思う。深夜のハンバーグの何が背徳か。食べたらわかる。こんなに美味いものは美徳に決まっている。神聖でこそあれ背徳の要素など微皆無だ。純粋な喜悦であり純粋な恍惚だ。美味すぎる。真夜中のハンバーグが美味過ぎて寝付けなくなったので,寝るまではずっとグランツーリスモをしていた。

遅く起きた。口が渇いている。前日のアルコールが少し残っているからだろう。定期的に会う友人が昨日も遊びに来た。そこで話が興に乗ってそれなりに酒を飲んだ。飲み過ぎたというほどではないが,節制したかというと決してそんなこともない。なんにせよ身体全体がほんのりと気怠い。料理を作る気にもならないし,外に出かける気力もない。仕方ないので,景気付けにハンバーガーを注文する。酔い覚めのブランチだ。

ブランチという音から真っ先に git の branch 概念を連想するのは職業病だろう。朝食を兼ねた昼食もブランチと云うが,こちらは brunch と綴る。見ての通り breakfast と lunch の合成語だ。厳密な初出は不明だが,どうやら20世紀初頭にはアメリカで俗語として流通していたらしい。昼食が朝食を兼ねることは経験的にもかなり頻繁に起こるのに,それ自体を表す語が1900年台まで存在しなかったことも不思議といえば不思議だ。おそらく,近代化の中で1日の食事を朝昼晩に3分割する様式が標準化したことに由来を持つ概念ではないか。それにしてもいささか安直過ぎる合成だと思う。さておき,昼食を兼ねる夕食という概念はついぞ目にも耳にもしたことがない。強いて合成するなら linner あたりになろうか。無理に何度か発音してみる。ひどい出来だ。音もひどければ,これといった用途も思い当たらない。だからいまだ存在しないのだろう。

今日の dinner はすき焼きだった。本当は昨日友人と囲む食卓で供するつもりで用意したのだが,妻の具合が悪くなり,僕の手際と要領では客人をすき焼きでもてなす自信がなかったところを急遽ピザで代替した。その分の牛ロースが翌日,つまり今日に持ち越されたというわけだ。すき焼きというのがじつに久しぶりだ。冬のかき氷よろしく,夏のすき焼きというのもなかなかオツな風情がある。たまごと和えてほおばると乳っぽい牛脂の香りが広がる。割下の甘みとたまごのとろみをまとって,喉越しも申し分ない。くたくたのエノキや味の染みたネギを中に巻いてもう一口。うまい。ビールを開ける。じつによくあう。小皿に漬物をあける。海苔も出す。豆腐も入れる。そんなふうにあれこれと箸を構えつつ食べすすめたら,あれよという間に250gをぺろりと平らげた。

それからは,うたた寝をしたり,そのせいでなかなか寝付けなかったりしながら,今こうして日記を書いている。