思い出しながら日記を書く。確かこの日は金曜日で,僕は誘われたバーベキューに行った日だ。バーベキューは夜で,昼はフランス料理だった。

その前の日,銀座の焼き鳥屋に誘われたから妻を連れ立って行ってきた。雑居ビルの何階だかにあるうらびれた感じの焼き鳥屋で,入店早々警戒心が高まる。真っ黒な壁と,油の気配が濃厚な店内の香り,いまひとつ行き届いた感じのしない清掃状態,不必要にこちらの出方を伺う店員の態度。すべてが少しずつ癇に障って正直あまりいい気分はしなかった。僕が外食に求めているのはかなり純度の高いエンターテイメントとしての料理とそのプレゼンテーションであって,持ち寄った孤独の擦り合わせや埋め合わせではない。銀座くんだりまで出向いておいて孤独を云々するのが野暮だと言われればそれまでだが,輪をかけて野暮な時間をなかば強要されたのだから,この程度の愚痴は許されてほしい。

あまりにも身体が野暮で燻されてしまったものだから,文化的な入浴が必要だった。僕もそうだし,果たして妻もそうだった。自分たちが外食に求めるものを再確認しないではいられないほど,焼き鳥屋で浴びた野暮の量に狼狽していたらしい。これを機に,ずっと連れ立って行きたかった平井のフランス料理に伺うことにした。平井というのは不思議な街で,よくあばれる2つの川に挟まれた中洲にある。下町の風情が強く,ひるがえって,ここまで山の手の気風を感じさせない空間も都内ではなかなか珍しい。そんな街の路地をくねくねとしばし進んでいくと,突然パッと明かりがついたように格調を感じさせるフランス料理屋が目に入る。異様であり,威容でもある。局所的に山の手が生えてきたような歪な空間だ。扉を開けるとぶわっと教科書のようなフランス料理の匂いが立ち込める。サービス,味,空間設計,どれも超一流と言ってよかろうと思う。アミューズからデセールにいたるまで一貫した美意識を感じさせる。特に,鶏肉のバスク風煮込みは目が覚めるようなエキゾチシズムが噛むたびに溢れ出す逸品で,いまだに味の輪郭が判明に思い出せるほどだった。

妻もいたく気に入ったようなので,出勤ついでに近々また行くことになると思う。