涙を流すこと自体はよくある。あくびをしたり,花粉症だったり,痛みだったり,涙というのは泣くという生理現象の帰結であって,生理学的にはそれ以上の意味はない。しかし人間はそこに,涙というものに実に多くの意味を見出したり,載せたりする。涙とは生理学的に濾過された血液である以前にまず,深刻な文学的対象だからだ。人間は常に理解可能なドラマツルギーの中を生きており,そういうドラマツルギーの中で切実なのは常に生理学よりも文学だった。物語だった。死も,流血も,たとえば,人間を有機化合物の系として対象化するなら,それは単なる停止や,不全に過ぎない。ただし,単なる停止や不全ではないから弔いや治療がある。僕は今日涙を流した。文学的な涙だったと思う。

もうすっかり夏でしかなく,夏らしくない風景を探す方が難しい。熱でゆらめく鈍色の線路も,遠くでみるみる膨らんでゆく積乱雲も,道ゆく人々の肌の露出も,空気に吸ってもらえずに浮き出す汗も,蚊取り線香の匂いも,伸び放題の雑草も,四半期決算も,冷房の重たい風も,全部が夏だ。今日の仕事は,人の話を聞きながらうまく相槌を打つことだった。こう書くとそっけないけれど,本当に難しくて,本当に大切な仕事だ。僕のような立場の人間が組織に対して出来る貢献は,畢竟,対話と激励くらいしかない。だから真剣に対話と激励をする。なるべく丁寧に,熱意を持って。

妻のハンバーグを食べたのは久しぶだった。妻自身も久しぶりに作ったと言っていた。僕はこのハンバーグが狂おしく好きだ。朝昼晩,いつ食べても美味い。いつ食べても美味いが,特に美味い一瞬がある。真夜中だ。さんまは目黒に限ると云うが,妻のハンバーグを食べるなら真夜中が一番美味い。旬だ。そもそも世間様一般では,真夜中の食事は背徳の象徴とされている。健康志向をこじらせたろくでもない価値観だと思う。深夜のハンバーグの何が背徳か。食べたらわかる。こんなに美味いものは美徳に決まっている。神聖でこそあれ背徳の要素など微皆無だ。純粋な喜悦であり純粋な恍惚だ。美味すぎる。真夜中のハンバーグが美味過ぎて寝付けなくなったので,寝るまではずっとグランツーリスモをしていた。