言い訳

言い訳からはじめよう。言い訳。言い訳が言い訳であるためには,おおよそ2つの要素が前提となる。まずは後ろめたいこと。そして言い訳を釈明として受け入れて欲しい相手がいること。今から始める僕の言い訳について言えば,後ろめたいのはこの夏のはじめあたりから,まとまった文章を書いていないこと。そしてそれを釈明したい相手というのは,他ならぬこの僕だ。だから,ごめんね,僕。全然書かせてあげてないや。

僕は自分の書き物を自分で読み返すことで自己同定してきた。青春時代とかいうものが定義上僕にもあったのだとしたら,その頃の僕はいまよりずっと極端に,自分の存在の核みたいなものを,自分の書いた文章に求めていた。この事実をいま過去形で語れているのが信じられないくらい,それは深い依存だった。信仰にさえ近かったかもしれない。当時のあおい信念が,あるいはドグマが,いまも時折あふれてきて,寝る前の退屈な脳みそをかきまぜる。それというのはつまり,僕の(あるいは人間の)存在の全体は僕の(あるいは人間の)日本語的なアウトプットの外延と一致している,という信念だ。だからたくさん書いたし,たくさん書けた。そしてたくさん読めたし,たくさん読んだ。他のどんな記号列よりも真剣に必死に,僕は僕を書いたり読んだりしていた。書くことや読むことが楽しいとか,嬉しいとか,そういうポジティブな感情がまるで無かったわけじゃない。でも,少なかった。どちらかというと,苦しかった気がする。それでも書いた。読んだ。やっぱり,信じていたからだ。再帰的神話。人間は,すくなくとも僕という人間は,積極的に,意識的に,あるいは戦略的に,自分の人格を実装できると,できるはずだと,そう信じていた。僕は僕によって十分に記述できるはずだと信じていた。いつからかは分からない。何がきっかけだったのかも。きっかけがあったのかどうかすら。でも,そうだった。

そしてそうではなくなった。なくなっていた。気がついたら,毎日1000字以上の日記を書かなくても済む人間になっていた。自分の文章を読むのに必死で電車を乗り過ごすこともなくなっていた。つまり,救われたんだ。知らないうちに救われていた。どうせきっかけなんてない。救いなんてだいたいそんなふうに,音もなくやって来ては跡形もなく去っていくものだ。こういう文章による自己同定の信仰……というか呪いについて,今の僕はすっかり救済されきっている。つもりでいた。だからこそ,こうしてしばらく何も書かずにいられる。いられた。

三子の魂云々っていうのは,きっとこういうことなんだと思う。結果ほら,こうして書いている。しかも,耐えかねて書いているんだ。書いていない後ろめたさに耐えかねて,その後ろめたさに書かされている。毎日欠かさず書かずに済む人間にはなったけど,書かずに済む人間にはなっていなかった。恥ずかしい話だ。

……転職についてぼんやり逡巡していたとき,ふと気がついた。僕は職業人としての自我が薄い。薄いし浅い。そう気がついたところで,思考が"自我"という単語に引っかかってヒュッと飛んだ。そっちに飛ぶのか。我ながら意外だった。そしてハッとした。その自我なるものを建築しようとして,必死に書いては読んでを繰り返していた学生時代を思い出したからだ。涙ぐましい。そんなことをしてみたけれど,結局僕はまともな自我を備え損ねたままだし,なんだか報われない。なんだ,全然救われていないじゃないか。そうだ,全然救われていないことに気がついて,少しでも救ってあげようとして,今こんなものを書いているのだった。そんな言い訳。