『わが秘密』1

ペトラルカという名前を初めて知ったのは,たしか10年くらい昔だ。高校の通学路にある本屋で,岩波文庫の新刊として平積みされていた『無知について』を手に取ったのを覚えている。ちょっと立ち読みして,そのまま買った。買って読んでみたけれど,当時はどう楽しんだらいいか分からなくて,読みさしのまま放っておいたらどこかにいってしまった。そんな有り様だったから,読んだには読んだはずだけど,内容はほとんど覚えていない。ただ,まったく覚えていないというわけでもなくて,やたらと教父アウグスティヌスを称揚していたのが印象的だった。その褒め方というか,褒めそやし方をなんとなく胡散臭く感じたことも,おぼろげに記憶している。

そんなわけで,この作家の文章をきちんと読むのはすごくすごく久しぶりだ。自分の中では実質的に初読のつもりでいる。ペトラルカという名前だって完全に忘れていて,何かの拍子に Amazon のレコメンドにこの本が紛れ込んでいなかったら,自分から探して読むようなことは金輪際無かっただろう。

だから期待値は低かった。ところがじっさい読み始めてみると,面白い。ただし,きっと誰が読んでも面白いという類の本ではない。これを面白いと感じるのは僕がある程度大人になったからで,そして大人としては依然として未熟だからで,その未熟さにほとほと嫌気が差しているからで,だからこそ克己の精神ばかりたくましくしているからで,しかしそんな殊勝な精神は空回りしてままならないまま,もやもやした内省でがんじがらめになっているから,だ。

要するに,書いている人間の自意識に強く共感できるからこそ,僕はこの本を面白がれている。そして,そんな自分をある程度客観視できているから,共感性の羞恥に丸焦げにされずに済んでいる。まあ,何箇所かひどい火傷は負っているけれど。

ではその,僕のざわざわするような共感を惹起してやまないペトラルカとはどんな人物だったかというと,まず詩人だった。そして聖職者でもあった。これは14世紀のヨーロッパを生きた知識人としてはありがちな肩書きで,さもありなんといったところ。面白いのは彼が自らたのむ詩人というだけでなく,正真正銘の桂冠詩人だっていうところだ。ペトラルカは詩人としてアポロンの祝福とともに月桂樹の冠を授けられている。それもローマの,元老院から!(前ルネサンス期の詩人がどうやって紀元前数世紀といういにしえの共和制ローマ元老院から桂冠を授かったのかはよく分からない)

ローマに憧れラテン的人文知に傾倒し,生活のために聖職者を続けながら創作をやめなかった壮年の詩人にとって,桂冠詩人という肩書きがどれだけ痺れる代物だったかは想像に難くない。作中でもこの達成は自意識の象徴として何度となく言及されて,その度に文章から得意満面が滲み出るかのごとくだ。

グレコローマンの文藝的伝統に深く立脚していることを示すように,この作品は全体として著者ペトラルカと教父アウグスティヌスの対話篇として編まれている。要するにペトラルカがアウグスティヌスを作中でイタコしているわけだけど,彼はそんな敬愛するアウグスティヌス先生に自分の詩作を引用させている。むろん一度や二度ではない。数えていないが数えたらちょっと引くほどの頻度でこれをやる。この圧倒的な自負と自我。さすが大シスマを経た動乱のイタリアでローマ由来の桂冠を戴く男の胆力はモノが違う。教条主義者たるはかくありたいものだ。

もっとも,『わが秘密』というこの作品自体,本当に秘密の日記帳のような立ち位置の文章だそうで,生前に公開されることはなかったらしい。私淑する哲人に自らの詩句を朗じさせる程度には破廉恥で,それを決して人目に触れさせない程度には理知的というのは,どうにもかなり分裂的な人格を勘ぐってしまうけれど,どうなんだろう。この辺,油断と覚悟のバランス感覚が絶妙過ぎてちょっと僕にはついていけない。