戦略

商売の世界にいると,あらゆる場所,あらゆる場面に”戦略”があふれている。ありふれている。経営戦略,マーケティング戦略,人事戦略,広告戦略,営業戦略,その他諸々,挙げていけばキリがない。どうしてこうも,巷の商売人という人種は商売について戦略を語るのが好きなのか,僕には不思議で仕方がない。ところで僕は戦略を語らない。語れない。これでも商売人の端くれをやっているつもりだけど,商売上の戦略というものを語ったことは,たぶんこれまで一度もない。それは僕が,戦略というもの,とくに巷で言われている意味での商売における戦略というものを,自分の言葉で語るに足るほど理解していないからだ。そしてある意味では,理解できないことを確信してもいるからだ。

知る限り,そして読んで字のごとく,戦略という語の由来するところをただせば,戦争論や兵法だろうと思う。戦争。今しも,ロシアがウクライナに仕掛けた戦争の話題が次々に飛び込んでくる。そこで記者は戦況を語り,司会者は悲惨を語り,識者は政治を語り,専門家が戦略を語る。戦略。これが,この激烈な行政執行にまつわる整序された思惑の系を戦略と呼ぶのなら,僕のやっている商売に戦略などない。存在しないし,必要もない。これまでもそうだし,これからもたぶんそうだ。

これは,戦争は絶対的な悲劇だから,そこに由来する語を軽々に商売で使うべきではない,という主張ではない。僕が戦略という語を比喩的に商売の文脈に用いることに否定的なのは,単にそれが比喩として失敗していると思うからだ。そして失敗した比喩を弄することは,商売に限らずどんな状況においても,一般的にあまり肯定的な効果を及ぼさないと思っているからだ。

当然のことだが,商売は戦争ではない。猫が花瓶ではないように,商売は戦争ではない。商売と戦争に(準)同型性を見出すために必要なモデル化は,猫と花瓶に(準)同型性を見出すために必要なモデル化と同じくらい困難で,高度だ。そして,無意味で,割りに合わない。少なくとも僕の認識空間において,この二者の意味的な距離は非常に遠い。

まずもって,その目的が違う。ふつう,戦争の目的は勝利だ。勝利とは,ある競争状況について,敵に対する自分の有利が決定的なことだとしよう。つまり,競争状況が終わるまで有利と不利の均衡が大きく変わってしまう見込みがほとんどない,ということだ。戦争の主体は,おおよそこういう形での勝利を目指すように思える。

一方で,商売の目的は勝利ではない。商売の目的は貢献だ。貢献というのは,誰かの役に立って,喜んでもらうことだ。そういう貢献が目的である以上,商売というのは自律的な持続性を持つ。ゴーイングコンサーンというやつだ。商売の息が長いほど,貢献の総量も増える。その意味で,商売に戦争的な意味での敵はいない。もちろん競合なり商売敵の存在は否定しないけれど,そういう”敵”に”勝利”したところで,それに起因していっそう世間様のお役に立てるかと言えば決してそうではない。

目的が違うことにしたがって,目的達成のための原則的な手段も違う。言わずもがな,戦争における中心的な手段は暴力であり,昨今はもっぱら火炎と鋼鉄の力だ。では,商売はどうか。商売の目的,すなわち持続的な貢献への手段とは何か。難しい。難しいが,おおよそ大抵の場合,それは折衷と呼べるようなものだ。つまり,折り合いをつけること。これは今の僕が認識する限り商売の本質を成す。暴力は一方的にも可能だし,ゆえに往々にして一方的になるけれど,一方的な折衷は語の定義上生じない。折衷は常に相互的なもので,理想的には相補的なものだ。

戦争と商売は,こんなにも違う。少なくとも僕とってこの乖離の程度は甚だしく見える。そして,その甚だしい乖離を横断して,おそらく商売の側が輸入したと思われる”戦略”という語が,それなりの意味を発揮できるとは思えないし,実際,発揮していると思わない。

しかし,それはそれとして,この戦略という語が商売の文脈で頻繁に使われているというのもまた紛れもない事実だ。戦略という語の意味を介したコミュニケーションは数多行われていて,それらはなんらかの形で受益者を生じている。だから使われ続けている。では,その受益者の享受する正の効用とはなんだろう,と考えてみる。

すると,それはある種の旗印なのではないかと思われてくる。その意味がどんなに薄く,かりそめのものであってもかまわない。なぜなら,戦略という語はその使用者たる商売人たちにとっては単なる旗印であって,戦略なるものが存在することを仮定して商売をしている人間同士だ,ということを確認し合う手段に過ぎないからだ。戦略の二文字が記された旗を背に竿して巷を歩けば,同じ旗の下にわらわらと,同じような人間が集まってくる。戦略の意味など,そこに集まった人間たちの間で最低限の同質性を担保する限りにおいて,その場その場で好きに書き換えればいい。そのために,その意味を空っぽにしてあるのだ。

あるいは,ゴールドラッシュ当時のジーンズやスコップに相当するのかもしれない。リーバイスを履いて,スコップを携えていれば,その人物の目的や属性は一目瞭然だ。そしてこの比喩がそれなりの精度をもっているとしたら,当然その背後に蔓延る思惑や利得にも思い至る。有名な俗話だが,ゴールドラッシュの熱病を煽り,金鉱から一番大量の金を掘り出したのは,ジーンズを売り,スコップを売った人間だという。似たような話は古今東西にあまねく存在する。さて,では今度,幻の金鉱に人を駆り立て,その麓で”戦略”を売り歩いているのは,いったいどんな人々だろう。どこの誰だか知らないが,彼らこそ本物の"商売人"だ。機を見て敏とはかくのごとし。揃いも揃って,みんな一本取られている。

一本どころか,じっさいは何本でも取られていておかしくないが,先も言った通りで,その分負けがこむわけではない。損はするかもしれないが,それは負けではない。戦略の存在が自明視され,それが飛び交う界隈には,それなりのリテラシーと熱意が芬々としているのも,また事実だろう。そういう場所が,商いの場として魅力的なのは間違いない。戦略とハサミは使いようとも言う。そこに機があれば,意味の虚しさにひととき身を委ねるくらいは安いものだ。そういう思惑で炯々と眼を光らせる商売人も,戦略という語の傘の下にはきっとたくさんいる。

そして,空虚の中に虎視眈々と時機を待った商売人同士が目を合わせ,手を取った時,そこにもはやおぼろげな"戦略"の入り込む空隙はない。そこで戦略は予算となり,戦略は計画となり,戦略は方針となり,戦略は順序となり,戦略は根回しとなり,戦略は行動へ,人間の動きへと消化され,還元されていく。

そういう意味で,戦略という語に語としての意味を求めるのは間違っているのだろう。それは空虚であるがゆえに存在価値を持つような,ひとつの旗印であり,スコップであり,触媒に過ぎない。しかし,少し考えればこんなにも当たり前なことを,当たり前であるからこそ,人間は忘れる。どんなに志を高く持つ商売人であろうとも,人間であるからには必ず忘れる。そして字面に囚われて,比喩の引力に翻弄され,胡乱な言説の陥穽にどこまでも落ちていく。その結果,クラウゼヴィッツや孫氏をありがたがり,物流を兵站として戯画化し,戦略と戦術の違いについて喧しく,中間管理職風情で君主論に参考を求めるような商売人が後を絶たないということが起こる。挙げ句の果てに最近の流行りは地政学だそうだ。

個人的には,戦略なる空虚に吸われていってしまう商売人のその旺盛な知識欲と向上心が,そのほんの一部でも簿記と統計と論理学に割かれることを願ってやまない。初歩でいいし,さわりでいい。簿記は日商3級程度でいいし,統計は統計検定4級程度でいい。論理学なんて古典的一階述語論理の概略までで十分だ。お釣りがくる。商売上の会話や文面のやり取りでは,双方のこの辺りの素養の有無如何で,快適性がまるで違う。話が早いし,気持ちがいい。せっかくならなるべく,気持ちよく商売がしたい。かくて戦略を学べばもっと気持ちよく商売ができるようなら,ちょっと勉強してみようかとも思うのだけど。