『わが秘密』2 - 桂冠詩人 -

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ペトラルカ本人が終生の誇りとする桂冠詩人,という立場,ないし肩書きについて,この本を読み始めた時からずっと引っかかっていた。というのは,僕の知識の中の桂冠詩人とは古代ギリシアからローマ時代にかけて行われた競技的文藝の覇者のことだ。時代が違う。ペトラルカは14世紀を生きた前ルネサンス期の人間で,アポロンの神慮をめでたくするにはさすがに時代が経ちすぎている。ペトラルカ本人が"暗黒時代"とも言ったように,14世紀の西ヨーロッパでは古代ローマに花開いたラテン的文化は見る影なく枯れ果てていて,詩人が月桂樹の冠を戴くというグレコローマン的脈絡の強いしきたりが,そのままそれとして残っているとも考えにくかった。しかし,ペトラルカが桂冠詩人であったことは資料を見る限り間違いない。

そもそも,この月桂冠は4世紀末テオドシウス1世によって異教の名の下に終焉を迎えたピューティア大祭の優勝者に贈られたものだ。ピューティア大祭はオリンピア大祭などと並ぶギリシア・ローマの象徴的大祭の一つで,藝術の神アポロンに捧げられたその競技祭の覇者には彼の想い人ダフネにちなんで月桂樹(daphne)の冠が授けられた。ちなみにオリンピア大祭ではこれがオリーブの冠となる。

こうした古代神話的内容の色濃い文学的伝統が,キリスト教的世界理解が遍在する地中海世界を,1000年の時を超えて継承され続けたとはとても思えない。

すなわち考えられるのは,一度は破壊され,聖書の闇の中に失われたこの月桂冠の伝統が,なんらかの形で復興を果たし,巡り巡ってペトラルカに桂冠の栄誉を施すことになったという可能性だ。ペトラルカが前ルネサンスアヴィニョンという,まさに文藝復興の兆しあらたかな時を生きたことを考慮すれば,十分に有り得るだろう。

調べてみると,古代以降の詩人として桂冠の栄誉に浴したのはペトラルカが最初ではない。ムサートという法律家・外交官が1315年にパドヴァ桂冠詩人となっており,これはペトラルカに先んじること26年となる。当時フランスにいた21歳のペトラルカがムサートの名誉をどのように受け止めたかは知る由もないが,どうやら彼がムサートの作品に触れていたことは,アカデミックに論証されているようだ。

ここで気になるのが,では,公式には実に1000年ぶりともなるこの戴冠の儀は,なぜ,誰によって,どのように”復興”され,そして桂冠詩人という立場は当時の社会でどのように受容されたのか,という点だ。

英語版のWikipedia にヒントになりそうな記述を見つけたので,下記にてまずはその文面を検証してゆきたいと思う。

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The custom derives from the ancient myth of Daphne and Apollo (Daphne signifying "laurel" in Greek), and was revived in Padua for Albertino Mussato,[10] followed by Petrarch's own crowning ceremony in the audience hall of the medieval senatorial palazzo on the Campidoglio on April 8, 1341.

<The custom ... was revived in Pauda for Albertino Mussato.> のくだりを素直に解釈すれば,この伝統は少なくともムサート”のために” 復興されたことがわかる。つまり,この時点での復興者はムサート本人ではない。ムサートの文学的達成に報いるため,当時の権力者がなんらかの資料に基づいてこの儀式をとりおこなっったであろうことが推察できる。さらに:

<Petrarch's own crowning ceremony in the audience hall of the medieval senatorial palazzo on the Campodogio on Campidoglio...> という記述も非常に示唆的だ。<own crowning ceremony> ということは,ペトラルカはおそらく自らの戴冠式を主催……とまでは言わないまでも,開催者の一員として自ら”復興”したであろうことが読み取れる。また,開催場所についても <senatorial palazzo> とある。palazzo とは palace の語源でもあり,古代ローマにおける宮殿や大邸宅などの大規模建築のことだ。senatorial は文字通りには”元老院の”という形容詞だし(14世紀のイタリアにおける Senator は共和制ローマ時代のものとは異なる実態を持つ),Campidoglio は古代ローマ市の政治的中心地であり,当時の関係者たちが古代ローマの様式を丁寧に踏襲しようとした痕跡が見て取れる。このことは,同エントリ内の次のような記述も裏付けとなるだろう:

Because the Renaissance figures who were attempting to revive the Classical tradition lacked detailed knowledge of the Roman precedent they were attempting to emulate, these ceremonies took on the character of doctoral candidatures.

ローマ時代の先例がすっかり失われてしまっていて,細かい知識を知る由もなかったから,儀礼は <doctoral candidatures> の形式を取った,くらいの意訳になるだろうか。中世ヨーロッパにおける doctoral candidatures が何を意味するかは微妙なところだが,文字通りには博士号授与式のようなものを想定すればいいだろう。まあ,それにしてもそれがどんな雰囲気だったのか僕には分からない。しかしなんにせよ,手探りなぎこちなさだけは伝わってくる。そして限られた知識の中で可能な限り伝統を emulate しようとしたことも,同時に伝わる。いじらしいじゃないか。

しかし,まだまだ気になることは尽きない。その儀式が実際にどんなふうだったのか。一体何を参考にして戴冠式を実施したのか。ムサートの戴冠式とペトラルカのそれはどれくらい似ていて,どれくらい違うものだったのか。ペトラルカ以降,中世の桂冠詩人は何人いて,どのくらいのペースで生まれていたのか。きっと調べているうちに,もっと気になることも出てくるだろう。だからとりあえず,目に付く参考文献を一通り揃えるところから始めようと思う。もはや『わが秘密』本文の内容とは全然関係ない文章になってしまっているけれど,仕方ない。こういうことは,よくある。